第十五章 戦陣中閑のこと
年が明けて十九年一月十六日、B25を基幹とする戦爆約五十機による猛爆、戦車を先頭にわが大隊本部前まで突入してきた敵との激闘。このマーカス岬の激戦はわが方の戦死五十一、戦傷五十七という犠牲者を出し、この日の夜敵を一応彼等の主抵抗線に撤退させた。戦場はジャングルも椰子林も黒い焦土と化し丸坊主の椰子の木だけが悪魔の針むしろのように残っていた。(戦陣写真館参照)大隊本部の位置から約二キロ離れた敵陣地からはジープの音がかすかに聞こえ、時々迫撃砲を発射してきた程度で、暫くの間、敵側にさしたる動きはみられなかった。戦死傷者の処理にはいやが上にも敵がい心をそそった。
約二ヶ月間の長期間にわたり、圧倒的に優勢な米海兵隊をマーカス岬の突端に封じ込めたわれわれ小森支隊の善戦は、天皇陛下から三度にわたるご嘉賞の光栄に浴したが、師団命令の「敵ノ飛行場設定企画図を破摧セヨ」の目的も果たし、二月十五日ラバウル集結のためのいわゆる「か号」転進作戦命令受領の運びとなり、いよいよ二ヶ月余にわたる死の苦闘が始まるのである。
転進準備も整ったある日戸伏大隊長と私は、両手を開いて五人ぐらいでようやくかかえられるようなラワンの大木の根元で休養をとっていた。
「フランスの国家マルセーユを教えよう。」 というのである。
色あせた通信紙の裏面に原語で書いて歌ってくれた。
「アロン・ザ・ファン・ドゥ・ラ・パトリーウ・・・」
何回も何回も歌いなおしては憶えた。戸伏大隊長は陸軍士官学校在学中に語学はフランス語を専攻されたそうであるが、戸伏大隊長の流暢なフランス語にただ感心していた。
マーカスの興奮いまださめやらぬ空虚の中で一生懸命憶えようとしていた。明日の生命の保証もない。冷い雫がポタポタ落ちてくるが、気にならない。二人は笑いながら重唱をした。フランス語には程遠い発音かもしれないが今でも時折原語で口ずさんでいる。生死の境にあって必死で憶えたものはこれほど忘れぬものなのだろうか。この戦陣での一コマをどう評価されようと勝手だが、いい勉強をさせてもらった。かくして二月二十六日正午に移動命令が発令され二十七・二十八の両日にわたって逐次第一線から後退してきた諸隊は、ディディモップからラバウルへと転進の北上を開始した。戦後の資料によると、マーカス岬正面の米軍が当面する日本軍を一掃するため、本格的に攻勢を開始したのが偶然われわれが撤退を開始した二月二十七日というから、まさに紙一重の差で離脱したわけでまさにスリル満点といえるが、一歩ずれればあるいは玉砕していたかもしれないと思うと身の毛がよだつ思いであった。