第二十六章 演劇団編成のこと
終戦後は、やけに暑さが身に沁みるようになった。気の緩みのせいか、マラリア罹患の将兵も多くなってきたような気がする。私なども概ね月一回定期的に襲ったマラリアも最近は二ヶ月に三回程度に増加した。どの兵舎にもマラリア患者が苦しそうにうめいている。
マラリアで静養している時に限って故国が偲ばれた。頭痛がして足腰の節々が痛い。「おふくろはどうしているだろうか」元気になれば、またいやな進駐部隊の援助作業だ。いつの日内地に帰れるのか・・・無性に望郷の念にかられる。
こんな日を過ごしていたある日、近くの貫名部隊(野戦重砲聯隊)で映画を上映するという話が入ってきた。農耕用の農作物の種子といい、映画のフィルムといい遥か離れたこの戦場にいつごろどうやって持ってきたものだろうかと、改めて感心させられた。
貫名部隊長のこの好意は各部隊将兵をどんなに慰めてくれたものか。今日は映画上映日という日は朝からワクワクして腰が落ち着かない!「今夜は内地が見られる!」「肉親に会える!」気持ちで映画館に急いだ。小高いところに映写機が据えられ見物席からやや下方に布のスクリーンが張ってある。夕闇迫る頃から映画場へ集まってくる。その足取りは誰もが早かった。貫名大佐の挨拶が終わり、映写が始まると拍手が湧き、口笛が鳴る!
出し物も相当用意してあり、その都度変わった物が見られた。いずれも年代物のようで縦に筋が入り、よく途中で途切れて中断した。会場が一時真暗闇なり「どうした!早くしろ〜!」の声が飛ぶ。待ちきれないのだ。
南の風、続・南の風、山祭梵天唄、ジャングルの恋、結婚の宿題、結婚の価値、裸の教科書、新柳桜、新女性連盟、伊賀の水月、唄祭浩吉節、木石、母の地図、生きている孫六、三代の盃、磯川兵助功名囃、浪曲祭、慰問の宝船、ハンガリアン夜曲、娘七人、豪傑誕生、むすめ、大江戸百揆、といったところで、同じものを何回も見て筋まで記憶したものもあった。
「大阪屋よろこべ。お利はお前のものになったぞ」
「あの人が怒った。六郎太が怒った。あの人もやっぱり男だ」
という台詞はこの中のどこかに出てきたものだ。
ある日、例によって貫名映画場へと急いだ。スタートが遅れていい席が取れなかったが、映写台の近くに僅かの空席があったので入り込んだ。上映まであまり間がなかった。ふとすぐ前を見ると、薄明かりの中にグリーンの服を着た一団が見え、一目で捕虜にされた日本軍人であることに気付いた。引率されて来たのだろう。何人ぐらいいたのか、何処の戦場で何処の捕虜になったのかも分からない。
その中の一人がこちらを向いた。ハッ!と固唾を飲んだ!旧制中学校時代の同級生S君ではないか!お互いに目礼はしたが、次の瞬間眼をそらせた。双方ともなんとも気まずい思いにかられた。間もなく最初の上映となり電燈が消え、そのまま映画の人になってしまったが、彼の恥じるようなまなざしが忘れられない。最近発行の同窓会名簿にも彼の住所、職業欄は空欄になっており消息は未だに分からないでいる。
貫名映画劇場に刺激されてか、各部隊で演芸大会が行なわれるようになってきた。昔から軍隊というところは、色々の職業の集団だといわれてきたが、演芸部門においてもプロないしプロ級の者が結構いたものである。
エノケンによく似た大下健氏、詩吟の梅岡学州氏、浪曲の春日井氏、講談の神田仙龍氏、漫才の南梅桃太郎氏、金太郎氏などはプロの芸人として方面軍司令部をはじめ各部隊でひっぱりだこであった。
芸は身を助けるというが、殺伐な毎日の生活に笑いや歌を与えてくれる人々は、地獄で会った佛や神様のような感じを持たれたものである。この頃海軍の芸人が中心となって「鵬劇団」を編成し、われわれの目を楽しませてくれた。六時公演というのに何時間も前から部隊の前に集まり、楽屋の入り口はわくわくしたファンで混雑した。鵬劇団の出し物は、バラエティ「唄ふ雲助」統萬民謡「豊年踊」バラエティ「歌模様」時代劇「恋慕吹雪」バラエティ「五条の夢」などであるが、舞台装置といい、衣装といい、照明といい、楽器といい現地でよくもこれだけの物をこしらえたものだと感心した。
小林、土田、八田、福島、近藤ら二十四〜五人の海軍の若者が女形になり、ちょんまげ姿の武者になり、しなを作って楽団の音楽に合わせて演ずる芸に観衆は酔った。異性に枯渇していた男達の眼は異様に輝き、幕が下りてもアンコールの声は止まず、楽屋に詰め掛けて「彼女」たちに会いたいファンでごった返したものである。
『皆様の切なる要望に応へて来る二十日(土)一八00より再上演』
-特別再公演プログラム-
1、バラエティ「唄ふ雲助」 福島、八田、佐竹、近藤、大田、川口、鶴原、東。
2、・・・・・・ といったガリ版刷りのプログラムが印刷配布され、女形に惚れ、内地に恋焦がれた若者達が又もや劇場に殺到した。農耕作業に行って「女形の何々に会った。」とか、○○が立小便していやがった。」とか、女形の話題は消えもやらず、中には女形の現実の姿をみて幻滅を感じた者も少なくなかったようである。
『統萬民謡 豊年踊』(八戸小唄の節で)
一、統萬日和に稲の穂ざかり〜娘踊れや豊年踊り♪アーヨイヤサ♪畠見渡しゃ黄金波♪
二、芋で知られた鵬農場〜汗にまみれたおいらの顔に♪アーヨイヤサ♪バルチン山からそよそよと♪
三、統萬仕込みの農民道で〜茨の道も明るく過しゃ♪アーヨイヤサ♪祖国復興が目に見える♪
色とりどりの衣装に日傘をさし、数人の女形が楽団に合わせて舞う姿は、この世のものではなかった。口をポカ〜ンとあけ、涙をこぼし、拍手をし、喚声を上げ、観衆はわれを忘れて酔いしれた。
小林氏の演ずる「お鷹」川口氏の「雛菊」土田氏の「牛若丸」などにはほれないものはなかったであろう。
その後、わが聯隊でも聯隊本部の猪股獣医大尉を団長とする三十六名からなる「統萬劇団」が設立され、ここでも観客でごった返した。
南十字星楽団の「唄と踊りと軽音楽」劇とは変わった趣好で我々を慰めてくれ、現地の廃物で製作した各種の楽器類に改めて目を見張ったものである。鵬、統萬両劇場で演じた出し物で、前述以外のものにこんなものがあった。 オペレッタ歌う八百屋お七、オペレッタどんぐり金太、元禄花見踊、阿里山の哀歌、ナンバーワン東京、舞踊お駒春姿、一人芝居月形半平太、艶姿やくざ音頭、お千代と番頭、歌模様長崎夜曲、同利根の舟歌、春の地平線、第二の接吻、仇討暦、真珠の首飾り、地蔵と石屋、瞼の母、浅間時雨、悲恋供養旅、弥次喜多、碧春、桶屋時蔵、薬鑵騒動、復興の歌、復員上陸第三歩、桜音頭といったところである。
演出、衣装、大小道具、照明、監督、それぞれ担当の労が実を結び、南の国トーマの一角は遅くまで興奮のルツボと化し、思い思いの感興の浸りながら 又次の公演へ夢と期待をかけて帰営していく。
こうして暑い夜の清涼飲料水のように、鵬劇場、統萬劇場は数多くの将兵に潤いを与え、ますます望郷の念をかりたてた。