戦陣の断章

一命は取り留めたといえようか。ここまで生き永らえ・・・

第二十八章 アスパラガス缶詰のこと

待ちに待った復員の便りがきた。

どこどこの部隊はもう帰ってしまったとか、こんどはどこどこの部隊だそうだとか噂は噂を呼び、おいてきぼりの焦りにも似た感情は蔽うべくもなく早く帰った部隊にねたみさえ感じるようになってきた。
誰からともなく三本箸で作った『コックリさん』占いが流行り出し、いついつ帰れると占いを立ててはそれを信じて期待していた矢先であるので将兵一同喜びは想像にかたくない。昭和二十一年四月中旬の(十五日)頃である。
各部隊はそれぞれ復員準備に余念がない。内地へ持ち帰る物の選択、背負袋作り、将兵の眼は希望に生き生きしていた。

万年筆や時計は豪軍の検閲で没収されてしまうとか、それを逃れるには何処へ隠したらいいだろうか?とか、どこの幕舎でもにぎやかな限りである。
私もゴム製の天幕を縫い合わせ背負袋を作るべくあぐらをかいて手慣れない千枚通しを使っていた。ゴムの天幕は案外通りにくい。しかし一応描いた青写真に従って、次第に形が出来ていく過程は楽しいものである。
せっかちで早く結果を見たい性格の私は作業を急いだ!「痛い!!」グサっという感触で思わず股ぐらに手をやった!あの千枚通しが突き刺さり鮮血が滲みだした。痛みをこらえてすばやく抜き取り、大急ぎでズボンと下着を下げて恐る恐る股中を覗いてみた。ゴム袋ならぬ肉の袋を完全に貫通しており真っ赤に染まっていた!思わず血の気が引いて軽い貧血が襲った。

まさに「タマゲタ」の一語に尽きる。僅かにタマをそれていたので一命は取り留めたといえようか。ここまで生き永らえ、復興参加前に千枚通し一本で事故死したらまさに犬死だろう。

各隊とも南崎へ集結するから幕舎を焼却せよの命令が出た。終戦八ヶ月余生活してきた椰子材の幕舎ともお別れだ。身辺を整理し、各自装具を片付けた後火を放った。炎々とトーマ集団は煙と火に包まれた。爽快だ!暫くは放心状態に似た心境で焼け落ちる我が家を見つめていた。

四月二十七日、トラックに分乗して南崎へ向かった。ほこりを立てて突っ走るトラックは今にもそのまま空へ舞い上がっていくかとさえ思えた。
南崎には、すでに復員して行った部隊が駐留していた幕舎が配置されており、到着したはしから宿舎が割り当てられた。
宿舎の周辺には缶詰の空缶がゴロゴロしていた。ここでの食事は格別だった。馬肉が豊富に出された。かつて活躍した軍馬だという・・・敗戦がゆえの犠牲とはいえさすがに涙が出てはじめは口に通らなかったが、ラバウル上陸以来肉らしい肉にありつけなかった我々にとってふんだんに食べられる馬肉の味は次第に口になじみ挙句の果てには食べ飽きてきた。

そのうちに豪軍から各種の缶詰が大量に放出された。牛缶とかスキヤキ缶などは飛ぶようになくなってしまった。缶詰も次第に食べ飽きてくる。臭味のあるアスパラガス缶詰などは口を半分あけたまま無残にも転がって汁が流れ出していた。レッテルのない缶だけにアスパラ缶だと分かるようになると口もあけずに捨てられていった。


これがマーカス岬の戦闘から「カ号転進作戦」、トーマにおける現地自活生活を通じ餓鬼畜生同様の生活を続けてきた人間か?といかぶった。喉元過ぐれば熱さ忘れるとはよく言ったものである。

ややくせのある味をもったアスパラ缶を私は好きだ。真夏のビールのつまみにはもってこいである!

金さえ出せばなんでも手に入る今日。アスパラ缶を食べる時餓鬼道の昔が偲ばれ、人間というもののあさましさも改めて感じさせられた。
例の千枚通しは今ではつやを増しており、まだ大切に使っている。

南崎の海はあくまでも静かに青く澄みわたり、北西ラバウル方面の空には積乱雲が白く輝いていた。