戦陣の断章

あまりにもやらなければならないことが多すぎた・・・

第二十一章 幹部候補生教育のこと

ビタカップ台、地獄谷一帯に布陣した夏兵団は、「マラリア」工作をやりながらトーマ三叉路から西ゴム林にかけて毎日のように戦技訓練に励んだ。一方洞窟作業、地獄谷道路構築、戦策道構築、道路補修等々いつラバウルに上陸してくるやも知れない敵のため、又いつ空から降りてくるやも知れない敵空挺部隊のため、あまりにもやらなければならないことが多すぎた。

第八方面軍は、昭和十九年を決戦の年と判断し、今村方面軍司令官の命により大詔奉載日の十二月八日に「決戦訓」を、次いで剛部隊作戦教令」をと次ぎ次ぎに出し、隷下各部隊将兵に訓練の心構えをたたき込んだ。

決戦訓は、『我等ハ必勝敢闘、断ジテ「ペリリウ」戦友ノ英霊ニ恥ヂサルベシ』の誓に次いで、一、序 二、必勝の信念 三、背水決死の攻撃 四、将校の信条 五、下士官の信条 六、兵の信条 七、死生観からなり、方面軍作戦教令は、綱領、対戦車戦闘、上陸戦闘、対空挺戦闘、夜間戦闘の五項目からなっていた。

いずれも各兵操典や作戦要務令の精神に基づくものとはいえ、ラバウル要塞の現地に即し、しかも当面予想される想定される想定を余すところなく折り込んだ完璧な訓令であった。

従って戦車隊との協同戦技訓練の如きは、まさに「骨を切らせて骨を截る」捨て身の肉攻であり、挺身攻撃であり、全将兵にいつでも来いの自身をつけた。 この時期には、よく春季必勝行事とか戦策甲、戦策乙といったような用語が用いられたものである。

ある期間私は乙種幹部候補生四名と下士官候補者三名の計七名からなる教育隊の教官を命ぜられ、私よりやや若い現役の伍長数名に特訓を行った。前述の訓令の精神に基づき、今でいうカリキュラムを作成して連日のようにジャングルの中を駆け、這い、暑さとも戦いながら訓練に励んだ。時には、将校であり教官である私に対し熱心さの余り議論を戦わしてくる元気な者もおり頼もしい限りであった。

しかしいずれも苦しさに耐え立派な下士官として、また分隊長として育ち、来るべき決戦に耐え得る素質を備えた。 しかし、近く幹部となるべきこの仲間の中からひとつの不幸な事態が起きた。

点呼の時にN伍長がいないという。数日前から様子がおかしいかったという話も出た。手分けして探したが見当たらない。

数日後ふだん使用していない洞窟の奥の方で自ら生命を絶った姿で発見された。戦友たちが交代で九時間余りも人工呼吸をしたであろうか。しかし遂に蘇生しなかった。

N候補生よ。なぜ死を選んだのか。どんな者でも苦痛はつきものだがそんなに君には辛い事があったのか。ここは戦場ではないか。 N君、これから上陸してくるであろう敵の顔も見ずになぜ今ごろ自ら命を絶ったのだ。 N君の顔が浮かぶたびに、なんと惜しいことをしたものだと心から冥福を祈っている。