戦陣の断章

武士の魂がこうまで屑同様の扱いをされなければならないのか・・・

第二十五章 豪軍援助作業のこと

ここ二〜三日、敵機の来襲が激減した。
八月十五日には全く姿を見せない。物足りなさのほかに不気味な感さえした。

翌十六日悲痛な終戦の知らせが伝達されたのである。続いて訓示があり全将兵は不動の姿勢のまま息を飲んだ。半信半疑、次第に実感が湧き始めるや涙がとめどもなく流れてきた。なんとも表現出来ない感情が交錯する。日本軍に果たして負けたなどということがあるのか。勝つ事意外に考えてもみた事がないのだ。

現実のものと自分に言い聞かせ、一応平静を取り戻すまでには長時間かかった。ラバウルでの一番長い数日だった。空に瞬く南十字星も恨めしく思う。

十七日戦闘行動は一切停止され、八月下旬には自らの手で武装を解除し、豪州軍が進駐してくるというので、その前に(九月一日)軍旗は奉焼された。暑い日の最も口惜しい日であった。

九月十日豪軍が進駐してきた。こんな奴らに敗れたかと思うと腹が立ってくる。捕虜としての待遇はせず、単に「武装解除した日本軍」としての扱いをするというのがせめて我慢の出来る事であった。

ラバウル周辺には、まだ陸海軍合わせて十万いるという事をこの頃知った。さすがラバウル要塞だ。進駐してきた豪軍のイーサー少将なども驚愕したそうだが、われわれも長年月かけて作り上げた総延長約四八○キロの地下洞窟要塞に一指も触れさせず避けさせた事をむしろ誇りにさえ思った。
行き会う豪兵に「どんなもんだい!」と腹の中で思ったものだ。

約一万人ずつ八つの集団と四つの作業団に分けられ、我々は第九集団として11.605人がトーマに集結させられた。有刺鉄線で囲われた毎日の生活にはむしゃくしゃしたが、諦めざるを得ない。我々は進駐してきた豪軍の命令で彼等の作業を手助けさせられた。毎日エンピやシャベルを担いでは門を出入りする。その都度パスポートで人員の確認をさせられるのだが、パスポートの裏側をしかも逆さに見て形式的に「ヘイ、オーライ」などと言っている文盲の番兵がやっているのを見ているとまた腹が立ってくる。

ラバウル海岸線には鉄砲を外した日本軍の戦車やトラックが列をなして並んでいた。何百台あるのか見えない程だ。又も口惜し涙が出てくる。
日本軍の兵器は大小の大きさに分けて整理され重機関銃以下のいわば小火器は赤根の海岸から船で運んで海没するという作業が何日も続いた。まさに金屑同然であり、勿体ない限りである。腹が立つ事ばかり続く。
兵器の海没作業や兵器弾薬集積作業には毎日多くの使役が狩り出され、いやな思いをさせられたものだった。

将校と下士官の所持していた軍刀、双眼鏡、拳銃はそれぞれ別々に山の中の洞窟内に集積させられた。彼らに何の目的があったのだろうか。たまたま私は軍刀の集積、整理作業班の指揮を命ぜられ、毎日同じ洞窟通いをしていた。洞窟の入り口にはお粗末な豪州兵が一応番をしている。私は薄暗い洞窟の中で整理作業をやりながら時折出入り口附近に来ては番兵の様子を見ていた。日本軍のそれとどの程度違うのか見たかったのである。

ある日、上級者らしい豪州軍人が現れて、番兵に二言三言話掛けたと思うと、数枚の紙幣を握らせて洞窟内に入ってきた。軍刀を何本か調べていたが突然私に向かって「この軍刀はいつごろの物か?」と問いかけてきた。彼らも心得た物で、ちゃんと柄を外して銘のところへ指をあてている。私は勿論専門家でもないし、古刀の銘の年代などの知識も無い。また暗くて字もよく見えないので適当に
「スリーハンドレット」
などと指を三本出して言ってやると
「フン、フン」などと言って喜んで持っていってしまった。すると暫くたって、またくだんの男が現れ、同様に賄賂を包んで入ってきた。同様の手口で私に騙されて持って出た。三度目はとうとう来なかったが、オーストラリアでは軍隊の中でも汚職があるのかと、おかしくもなってきたが、一方では刀の年代を適当に教えて「いい気味」だと思った反面、後でバレたら事だなと思って心配したり、中々お相手に骨の折れる作業だった。

大将と少尉、親と子ほどの年の差である。自分の所属と名前を言った後徳利を傾けた。その時、二言三言何か言われたが、周囲が既にざわついているのと 緊張の余り聞き取れなかった。しかし只一つ
『センズリカキばかりやっていては駄目だぞ(笑)』
と大笑いしながら言われたことだけが耳に残っている。

しかし何千本と集められた軍刀を整理しながら、この中には眞野中将の所持しておられたような名刀も何本か混っていたであろうことや、武士の魂がこうまで屑同様の扱いをされなければならないのかと思うにつけ、またまた口惜し涙にくれるのであった。