年が明けて十九年一月十六日、B25を基幹とする戦爆五十機による猛爆撃、戦車を先頭に我大隊本部前まで侵入してきた敵との激闘。 このマーカスの激戦はわが方の戦死五十一、戦傷五十七という犠牲者を出し、この日の夜、敵を一応彼らの主抵抗線に撤退させた。

 戦場はジャングルも椰子林も黒い焦土と化し丸坊主の椰子の木だけが悪魔の針むしろのように残っていた。(戦陣写真館参照) 大隊本部の位置から約二キロ離れた敵陣地からはジープの音がかすかに聞こえ、時々迫撃砲を発射してきた程度で、暫くの間、敵側にさしたる動きは見られなかった。 戦死者の処理にはいやが上にも敵愾心をそそった。

 約二ヵ月半の長期間にわたり、圧倒的に優勢な米海兵隊をマーカス岬の突端に封じ込めたわれわれ小森支隊の善戦は、天皇陛下から三度にわたるご嘉賞の光栄に浴したが、 師団命令の「敵ノ飛行場設定企図ヲ破摧セヨ」の目的も果たし、二月二十五日ラバウル集結の為のいわゆる「カ号作戦」に基づく転進作戦命令受領の運びとなった。 いよいよ二ヶ月余にわたる死の苦闘が始まるのである。

 転進準備も整ったある日、戸伏大隊長と私は両手で開いて五人位でようやく抱えられるようなラワンの大木の根元で休養をとっていた。 すると戸伏大隊長は「フランスの国歌マルセイエーズを教えよう。」というのである。色あせた通信紙の裏面に原語で書いて歌ってくれた。 「アラン・ザ・ファン・ドゥ・ラ・パトリーウ・・・」何回も何回も歌いなおしては憶えた。戸伏大隊長は陸軍士官学校在学中は語学にフランス語を専攻されたそうであるが、 戸伏少佐の流暢なフランス語にただ感心していた。

 マーカスの興奮いまだ冷め遣らぬ空虚の中で、一生懸命憶えようとしていた。明日の命の保証はない。冷たい雫がポタポタ落ちてくるが、気にならない。 二人は笑いながら重唱した。フランス語には程遠い発音かも知れないが、今でも時折原語で口ずさんでいる。生死の境にあって必至で憶えたものはこれほど忘れぬものなのだろうか。

 この戦陣での一齣をどう評価されようと勝手だが、いい勉強をさせてもらった。

 かくして二月二十六日正午に移動命令が発令され、二十七、二十八の両日にわたって逐次第一線から後退してきた諸隊は、ディディモップからラバウルへと転進の北上を開始した。 戦後の資料によると、マーカス正面の米軍が当面する日本軍を一掃する為、本格的に攻勢を開始したのが偶然我々が撤退を開始した二月二十七日と言うから、 まさに紙一重の差で離脱したわけで、まさにスリル満点といえるが、一歩ずれればあるいは玉砕していたかも知れないと思うと身の毛がよだつ思いであった。