ビタカップ台、地獄谷一帯に布陣した夏兵団は、「マラリア」工作をやりながらトーマ三叉路から西ゴム林にかけて毎日のように戦技訓練に励んだ。 一方洞窟作業、地獄谷道路構築、戦策道構築、道路補修等々いつラバウルに敵が上陸してくるやも知れない敵の為、又いつ空から降りてくるやもしれない 敵空挺部隊の為、余りにもやらなければなら無いことが多すぎた。
第八方面軍は、昭和十九年を決戦の年と判断し、今村方面軍司令官の命により大詔奉載日の十二月八日に「決戦訓」を、次いで「方面軍作戦教令」をと次々に出し、 隷下各部隊将兵に訓練の心構えを叩き込んだ。
「決戦訓」(全文、末尾)は、『我等ハ必勝敢闘、断ジテ「ペリリウ」戦友ノ英霊に恥ヂザルベシ』の誓に次いで、一序、二・必勝の信念、三・背水決死の攻撃、 四・将校の信条、五・下士官の信条、六・兵の信条、七・死生観からなり、方面軍作戦教令は、網領、対戦車戦闘、上陸戦闘、対空挺戦闘、夜間戦闘の5項目からなっていた。
いずれも各兵操典や作戦要務令の精神に基づくものとはいえ、ラバウル要塞の現地に即し、しかも当面予想される想定を余すところ無く織り込んだ完璧な訓令であった。
従って戦車隊との協同戦技訓練の如きは、まさに「骨を切らせて骨を切る」捨て身の肉攻であり、挺身攻撃であり、全将兵いつでも来い!の自信を付けた。
この時期には、春季必勝行事とか戦策乙といったような用語が用いられたものである。ある期間私は乙種幹部候補生四名と下士官候補者三名の計七名からなる教育隊の教官を命ぜられ、私よりやや若い現役の伍長数名に特訓を行なった。前述の訓令の精神に基づき、今でいうカリキュラムを作成して連日のようにジャングルの中を駆け、 這い、暑さとも戦いながら訓練に励んだ。時には、将校であり教官である私に対し熱心さのあまり議論を戦わしてくる元気な者もおり頼もしい限りであった。しかしいずれも苦しさに耐え立派な指揮官として、また分隊長として育ち、来るべき決戦に耐え得る素質を備えた。
しかし、近く幹部となるべきこの仲間の中から一つの不幸な事態が起きた。点呼のときにN伍長がいないという。数日前から様子がおかしかったという話も出た。 数日後、普段使用していない洞窟の奥の方で自ら生命を断った姿で発見された。戦友たちが交代で九時間余りも人工呼吸をしたであろうか。しかし遂に蘇生しなかった。
N候補生よ。なぜ死を選んだのか?どんな者でも苦痛はつきものだが、そんなに君には辛い事があったのか。ここは戦場ではないか。N君これから上陸してくるであろう敵の顔も見ずに何故今頃自らの命を絶ったのだ!
N君の顔が浮かぶたびに、何と惜しい事をしたものだと心から冥福を祈っている。