Diary No.41 「新谷元中尉との縁」
福山の連隊で幹部候補生に合格して間もない頃の話。 不寝番勤務中に週番士官勤務の新谷見習士官が巡察に回ってきた。 「不寝番立哨中異常ありません!」と報告するや「どれどれ」と
廊下に集めてあった煙管(煙草の吸殻入れのこと)の数を数え始めた。 「1個足りないではないか!」との言葉。数えると確かに1個足りない。 「事務室へ行って調べてみい」と。案の定中隊事務室にはまだ1個置いてあった。
「不寝番がなにをやってる!!」と大目玉。「ハイ!!」といって難を逃れた。
未だ熊本陸軍教導学校から見習士官になって帰隊したばかりの 新谷見習士官はまぶしい程に格好よかった。 自分もいずれはーと淡い羨望の眼差しで憧れたのであった。
私が、昭和17年10月末、久留米第一陸軍予備士官学校を卒業し 晴れて見習士官になった時、かつての新谷見習士官を思い出した。 やはり自分でも格好いいと思った。
その年の12月、私達7名の同期の見習士官と多くの補充下士官・兵は 福山の連隊を後にして戦地へと出征していった。
6隻の輸送船が駆逐艦に護衛されて豊後水道を南下した。
約2週間のジグザク航海の後、着いたところが「ラバウルの戦場」
であった。原隊が駐留しているという「ラクネ」に到着し、戸伏大隊長に
着任の申告したあと将校室に案内されると、なんとそこには新谷少尉が
おられ、「やあ〜やってきたか。しばらくだったな〜途中よくやられなかったもんだ」
とあっけらかん。第3中隊の小隊長をやっておられた。
そしてマーカス岬へ逆上陸の命を受け、オモイに上るやマングローブの連続。戸伏大隊長は、新谷少尉に斥候を命じた。大隊副官だった私も彼の報告をいまや遅しと待っていたところ、
新谷斥候が息堰きって朗報をもたらしてくれた。「戦場までもう近いから一同頑張ってください!」とのこと。
戸伏大隊長も「ご苦労ご苦労」と労った。
新谷中尉も無事復員され広島市で余生を送っておられる。
復員後、旧連隊の跡で同期の藤山君と3名で会い昔話に
花を咲かせたことが思い出される。
私の1歳年上であるが、今は極度の難聴で会話が出来ないのが
残念である。漢詩に長け、時々自作の漢詩を送ってくれる。
新谷さんとの縁は深く、かつ同じ戦場で苦労した数少ない戦友である。
お互い長生きしてまたお逢いしたいものである。
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