転進部隊は、飢餓と栄養失調の極にあった。
現地人のタロ芋、ヤシの芽、バナナの芯等を調達できるうちはよかったが、体力の衰えと共に行動範囲も狭くなり 得体の知れないものでも食べるようになった。 装具も逐次捨てていき身軽にならざるを得なかった。将兵の誰を見ても兵器、弾薬、炊事用具のほかは必要最小限度のものしか持っていなかった。
日本式マッチはすぐに湿って薬が崩れてしまい、すぐに用を足さなくなる。誰がいつ初体験をしたのか防毒面を内緒で燃料に用いていた。 面のゴムの部分がよく燃えるというのだ。防毒面は軍事機密に属する。然し気力だけで、ただ足を前に送るだけの状況下では、もはや生き延びるだけしかない。 防毒面はいつの間にか、殆どの将兵の方から姿を消していた。
トリウを出てクロスポイントを通過するころには衣服はボロボロ。裸の水筒を腰に下げ、足は軍靴か地下足袋をかろうじて結えてくるんであった。 髭はむろん伸び放題で夢遊病者の集団と言ってもよかったかもしれない。
途中で辛さのあまり手榴弾で自らの生命を絶ったもの、落伍したため遂には掌握出来なかった者、マラリアと下痢の為息絶えた者、まさにこの世の地獄であった。
シナップに辿り着く。友軍の衛生隊などが迎えに見えていた。目的地のトーマはもうすぐだと聞かされるが、放心状態の我々は無表情だった。
顧みると二月二十七日にマーカス岬を離脱してから二ヶ月余、毎日毎日よくも歩いたものである。 辛いけれども自分との戦いに勝ち、部隊と行動を共にしてきた者だけがゴールインしたのだ。粁程表でみると、五百キロ〜六百キロ余になる。
ビタカップ一帯に陣取った夏兵団本部と合流したのが、十九年四月二十九日。涙がこぼれた。
体調を整え、被服の支給を受け、兵器の整備を行いラバウル持久決戦に備えた。決戦用として支給された「まっさら」の服や下着には身が引き締まる。 なんともいえない良い香りがした。いざ敵が上陸してくれば、上から下までこれに着替えて刺し違えるのだ。刀の手入れを行い、弾丸は一発一発丹念に磨いた。