このような戦闘をくぐり抜けてきた人間が、冷静に現場を見据えつつも、最後まで戦うのだ!と、思わせたものは一体なんであったのだろうか?「負ける気はしない!」と著者は思っていた。著者は当時の教育の徹底振りとは言っているが、実際・・・
もしも自分がこの戦場で戦っていたらどのように思っていただろう?
武器、弾薬共に乏しい状況下で米戦車(M3)約10台を撃退、2台が大破放逐され米軍は前進を停止し撤退。擲弾筒の有効に使用し戦車の天蓋をこじ開け手榴弾を投げ込むという戦闘であった。
昭和十七年一月、当時太平洋方面で海軍最大の根拠地であったトラック島の前進根拠地として帝國陸海軍は協同して ニューブリテン島のラバウルを占領。大本営は豪州の孤立化を企図、太平洋における米豪連絡線を遮断することとし、 陸軍は第十七軍(軍司令官 百武晴吉中将)を新編し作戦を準備した。大本営はまず第五十一師団の派遣を令し、 次いで第八方面軍(軍司令官 今村均大将)の編成派遣を下令。昭和十七年十一月九日第八方面軍今村司令官に対して、 天皇陛下は「南太平洋より敵の反抗は、国家の興廃に甚大の関係を有する。速やかに苦戦中の軍を救援し、戦勢を挽回せよ。」 陛下自身が準備されたものを読み上げられたあと、今村大将に対し「今村、しっかり頼むぞ」と強くおっしゃったといいます。 しかし、五月七日珊瑚海海戦、六月五日ミッドウェー海戦の大敗で大本営はFS作戦、MO作戦延期下令(MO作戦は米豪遮断作戦FS作戦の第一歩として実施された)七月一日陸路によるポートモレスビー攻略研究を開始。 九月三十日南海支隊のモレスビー作戦準備を下令。十二月第八方面軍 ラエ・サラモア以西確保を下令。 翌年十八年12月連合軍マーカス岬に上陸。ここにマーカス岬の戦闘が始まるのである。ご存知のとおり、 マーカス岬に対する反撃はニューブリテン島での初戦であり、ダンピール海峡防衛の第一段階を画するものである。 下記の地図をご参照頂きたい。(右ニューブリテン島、左ニューギニアの真ん中の海峡付近、フィンシュハーフェンの北にあるワンボイ島付近である)
昭和十八年四月上旬、方面軍は西部ニューブリテンの態勢を強化するため、 当時ラバウル地区の警備に任じていた第六十五旅団を同地に派遣することとし、その準備を命じた。 第六十五旅団長真野五郎中将(24期)は歩兵百四十一聯隊第一大隊長戸伏長之少佐(44期)を長とする偵察隊を編成しこれをツルブ方面に派遣して、 四月末までに同地を偵察するよう処置して進出を準備していたが、五月四日『主力を以て「ツルブ-タラセアに至り、 マーカス岬-タラセアを連なる線を含む以西のニューブリテン島及びウインボイ島の警備』を要旨とする方面軍命令(剛方作命甲第二五六号)を受領。 方面軍はこの命令に付随する参謀長支持によって、第十八軍部隊のフィンシハーフェンへの推進計画、 飛行場整備計画等所要の事項を示し、 同時に旅団司令部以下二一〇名をラバウル発の駆逐艦によってツルブに輸送するように指示し、 この先遣隊は五月十三日夜ツルブに上陸した。 (この中には著者が含まれている。) 方面軍のこの処置によって、これまでは見るべき部隊の配備されていなかった西部ニューブリテン島にも一個兵団が進出することになったわけである。 十八年六月末、連合軍はナツソウ湾、レンドバ島に上陸。戦況はにわかに急を告げ航空作戦の不振、補給輸送の困難等が原因し第一線の戦況は日に日に悪化の一途をたどった。 このような第一線特にラエ、サラモア方面の危急は、その後方要地である西部ニューブリテン島の防備強化の要を認めさせることとなったのである。
方面軍は七月二十三日、第六十五旅団に次の要旨の命令を与え、要地確保の任務を明示した。(剛方作命甲第三八九号)
第六十五旅団主力の輸送は、月暗期を選んで行う駆逐艦輸送の関係で延引し、主力である歩兵第百四十一聯隊の進出は、 その第一大隊が六月下旬、残存兵力が七月下旬から八月上旬となった。また駆逐艦の搭載に洩れた一部の人員機材は更にその後逐次主力に追及することとなり、最後の追及者が聯隊長の掌握に入ったのは十九年初め、聯隊のタラセアに向かう転進を開始した後であったとされる。当時の第六十五旅団の主要職員は以下のとおり。
岩佐旅団長の転出に伴い当時まだラバウルにいた着任早々の片山大佐が、急遽軍旗を奉じて海軍機でツルブに飛び七月三十日、折から出発途上の岩佐少将と飛行場で慌しい対面を行い、旅団長代理としてその指揮を継承した。そのころの旅団配置は、歩兵第百四十一聯隊第一大隊をブッシング、一個小隊程度をウインボイ島に派遣したほか、主力はツルブ付近に位置していた。