マーカス岬の戦闘を考察してみる


 考察の前に独り言を述べたい。それはどの前線の話を聞かせて頂くと例外を除き必ず思う事がある。それはこのような実戦をくぐり抜けてきた人間がその時如何に冷静に現場を見据えつつ最後まで戦うのだ!と思わせていたと云う事だ。後述するがそこにある信念の根源は一体なんであったのだろうか?と云う事だ。「負ける気はしなかった。」と著者は語っていた。続いて「まぁ当時の教育の徹底振りですよ」と言っているのだが、その言を聞くたびに、(あれだけ物資不足の中での戦闘を身を以て経験しているのに…)自分はいつも「またまたご謙遜を!」と心底思うのである。 現在では到底あり得ない心の強さなのだなと毎度の事ながら尊敬の念に駆られてしまう。

 そして終戦後ご存知の方は多い事だろう。占領下の教育は以前のものとは正反対であり素晴らしいものに変化した(皮肉である)。例えば、勇ましいもの、国防、護る、「ヘイタイサン」「ススメススメ!」に関連する文は占領軍の命令により墨で塗りつぶされた素晴らしい漆黒の教科書から始まった。戦中から教職に就いていた方はこれを是としなければいじめと失職が待ち構えていた。いわば再教育と云う所謂去勢教育の始まりである。そして偽りの「平和の尊さ」を教え、反抗心、反骨精神を奪う事を目的とした教育は見事に成功した。(元来我が国では「人に優しく」「礼儀正しく」「質素に」「文武両道」等の教育は当たり前であったのだが。)しかしその代償は取り返しが付かない大きさに膨張する事になる。

 元々勤勉な国民性を復興と云う名で各種経済に向ける事により敗戦国では史上類を見ないあり得ない経済発展を遂げる事に成功する。この繁栄に世界は驚愕した。更に「戦争は駄目」から敗者に対する著しい賠償が大小様々な形で甘受しなければならないと云う事も同時進行で徹底教育され、数々の条約を果した現在も続いているのである。その結果は周知の通り言うまでもない。欠落した偏差値教育を押し進め、高等教育の場から真の世界情勢の各情報収集を怠らせ、「何がそうさせたのか?」と云う事をうやむやで悲観的な教育により目を逸らさせ、その平和がかりそめの平和である事という重大な事をも思案させない様に娯楽を与え只、儲けの為なら何をやっても構わないと過ごした結果が現在の状況である。まさしく平和ぼけがほぼ完全に板に付ききった。「戦争反対」と云う言葉でミスリードさせ、その言葉は強力な呪詛になった。普通「戦争反対」は何も特別な言ではなく、国家や軍にとっても至極当たり前の事を、さも特別な文言として定着させる為である。戦時下〜終戦後の混沌、飢えた民草に対して徐々に食と娯楽を与えらた。不足していた物資を徐々に提供してくれる平和の使者に見えたかもしれない。疑いつつもそれに乗っからざるおえない状況を作り出されまんまと引っかかってしまった訳である。

 一部を除き世界情勢を鑑みずその当たり前な言葉に執着させられ徹底した戦後教育は完全に成功した。それは様々な結果を生み出す事になる。生死問わず元軍人やその家族に対する教育や生活の場でのいじめと偏見を助長させ、例えば普通にある世代間対立も戦争が絡むと激しさを増した。

 本来何処の国もある本格的な政治、軍事、戦略研究系の学部は皆無となった。また、終戦直後全国の大混乱をひた隠し、様々な悪辣行為を隠匿する事、もしくは目を逸らさせる事にも成功した。果たしてそれが及ぼす効果はどうなるか?前述だが当然知っている人と知らない人の二極化が発生しそれは磁石の同極が如く反発し合う。そんな中ひとたび火が付けばどうなるか?国内はわざわざ二分三分して大混乱は必至だろう。何にしてもバラバラだからだ。 別に完全一致が理想だなどと言っている訳では無い事をあえて書いておく。そうでもしないといらぬ誤解を招きそうだ。

 「こんな国になってしまった」 この言葉は軍隊がどうのと云う意味ではない。

 さて本題に戻ろう。この上陸は大幅な迂回を余儀なくされたわけだが、 遅ればせながら敵の進攻を一時的とはいえ食い止めたことには変わりがない。 命令違反を犯してまで上陸地点を変更せざる終えなかった理由は既に明らかとなっている。(現場を見ず駒を動かすリスクは恐ろしいものだと実感する。)
また、この地域での帝國陸海軍の活動はこの時期既に衰え始めた最中ではあるが、 武器弾薬糧秣等不十分な状況下での対戦車戦として後世に残るであろう。(否、何処かで書かないと残らないだろう。)

 周辺地域に適した至って正攻法な布陣、大胆な攻撃方法は突撃ばかりが日本軍ではないことがよく解る。この地域で布陣し戦闘をした各部隊の詳細を知るにつれ、各将兵の徴兵時期を問わず脱帽に値するものである。
 この戦闘は大隊レベルの小戦闘であり評価に値しないなどと著名な戦史研究家が私に言った事があるが、有識者の意外にお粗末な見解のあきれた記憶の一つとしてよく覚えている。戦術的戦闘と云うものは分隊や個人の功績がその勝敗を決する一つの要因となり、それが戦略レベルに多大に影響する事がある。(勿論ご承知の通りと思う)ましてこの戦闘は既に占領された場所に小兵力で奪還するという作戦だ。兵站乏しく武器、弾薬共に著しく不利な状況下で戦車(M3)約10台を撃退。2台が大破放逐。米軍は前進を停止し撤退。背嚢を胸に擲弾筒を水平射撃する臨機応変な擲弾筒の利用方法はこの戦闘が初であったと云われている。(当然発射後は後ろにゴロゴロ転がってしまうそうだが)そしてハリウッド映画の如く戦車に肉薄しよじ登り天蓋をこじ開け手榴弾を投げ込むという戦闘なのである。もしこの国でメインキャスト総て女子でアニメ化映画化すれば大ヒット間違いないのではないだろうか?(これは最大の皮肉である。)

 昭和十七年一月、当時太平洋方面で海軍最大の根拠地であったトラック島の前進根拠地として帝國陸海軍は協同して ニューブリテン島のラバウルを占領。大本営は豪州の孤立化を企図、太平洋における米豪連絡線を遮断することとし、 陸軍は第十七軍(軍司令官 百武晴吉中将)を新編し作戦を準備した。大本営はまず第五十一師団の派遣を令し、 次いで第八方面軍(軍司令官 今村均大将)の編成派遣を下令。昭和十七年十一月九日第八方面軍今村司令官に対して 天皇陛下は「南太平洋より敵の反抗は、国家の興廃に甚大の関係を有する。速やかに苦戦中の軍を救援し戦勢を挽回せよ。」 陛下自身が準備されたものを読み上げられたあと、今村大将に対し「今村、しっかり頼むぞ」と強くおっしゃったといいます。 しかし、五月七日珊瑚海海戦、六月五日ミッドウェー海戦の大敗で大本営はFS作戦、MO作戦延期下令(MO作戦は米豪遮断作戦FS作戦の第一歩として実施された)七月一日陸路によるポートモレスビー攻略研究を開始。九月三十日南海支隊のモレスビー作戦準備を下令。十二月第八方面軍ラエ・サラモア以西確保を下令。翌年十八年12月連合軍マーカス岬に上陸。ここにマーカス岬の戦闘が始まるのである。ご存知のとおりマーカス岬に対する反撃はニューブリテン島での初戦であり、ダンピール海峡防衛の第一段階を画するものである。下記の地図をご参照頂きたい。※2(右ニューブリテン島、左ニューギニアの真ん中の海峡付近、フィンシュハーフェンの北にあるワンボイ島付近である)

 昭和十八年四月上旬、方面軍は西部ニューブリテンの態勢を強化するため、 当時ラバウル地区の警備に任じていた第六十五旅団を同地に派遣することとし、その準備を命じた。第六十五旅団長真野五郎中将(24期)は歩兵百四十一聯隊第一大隊長戸伏長之少佐(44期)を長とする偵察隊を編成しこれをツルブ方面に派遣して、四月末までに同地を偵察するよう処置して進出を準備していたが、五月四日『主力を以て「ツルブ-タラセアに至り、マーカス岬-タラセアを連なる線を含む以西のニューブリテン島及びウインボイ島の警備』を要旨とする方面軍命令(剛方作命甲第二五六号)を受領。方面軍はこの命令に付随する参謀長支持によって、第十八軍部隊のフィンシハーフェンへの推進計画、飛行場整備計画等所要の事項を示し、同時に旅団司令部以下二一〇名をラバウル発の駆逐艦によってツルブに輸送するように指示。この先遣隊は五月十三日夜ツルブに上陸した。(この中に著者も含まれている。) 方面軍のこの処置によって、これまでは見るべき部隊の配備されていなかった西部ニューブリテン島にも一個兵団が進出することになったわけである。

 
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