さて、マーカス岬に逆上陸し、上陸した米軍を撃退する命令を受けた戸伏大隊。しかし当初の予定よりも上陸地点は若干ずれて、オモイに上陸したことはすでに述べたとおりである。そして戸伏大隊の舟艇機動の状況については関係者の回想に極端な相違があり史実の決定が困難であると戦史叢書には記されている。
松田支隊長の戦後の回想録(昭和33年)には、二十一日に「戸伏大隊長に対し再乗船、速かに敵上陸地点付近に果敢に上陸し直ちに敵を攻撃すべき旨を厳命す」とある。そして「戸伏大隊はマーカス付近に再度上陸しなおし、舟艇部隊は二十二日未明ブッシングに帰還したり」と続いている。
片山聯隊長の戦後の回想録では、「松田支隊長は逆上陸になっていないではないか!と激怒した。支隊長がもう一度やり直せ!と言っていたことは事実であるが、再度舟艇が出たかどうか、その詳細は知らない」とある。
戸伏大隊長の戦後の回想録では、「一度上陸してまたやり直したという事実は無い」
船舶工兵第一聯隊第一中隊長高鍋五郎大尉の回想だと、舟艇は確かに二回出た筈である。なお第二回目に舟艇が出たときは、無線も通じていた筈で、支隊長が戸伏少佐に「全軍の期待に反しマーカス岬上陸せざりしは不可なり」という強い電報を打ったことを記憶している。
戦後、ラバウル会などで戸伏大隊の面々が集った際、勿論この話題が出てきたことは言うまでも無いことであるが、逆上陸をやり直した事実は無いと語っており、先頭の舟艇に乗船していた船舶小隊長、小堺氏も同意見である。
「戦友会でも戸伏さんらとこの件についてよく笑い話しをしました。一回でオモイに上陸しており、やり直しはありません。(出来るはずがない)※3 ただ上陸地点を独断で変更した事は、長である戸伏さんにとっては自分は命令違反を犯した判断し、 その後その事をずっと引きずっていたそうです。
しかし、ずっと後になって状況判断に間違いがなかったことが認められる事となりました。
それはその後戸伏大隊長が「第六五旅団参謀」になったのを見ても立証出来ます。」(元大隊長副官塚本中尉談)もしも命令どおりにマーカス岬に逆上陸していたならば、準備不足で有りながら急な命令により出発した戸伏大隊は確実に全滅していたであろう。 当初それぞれの回想にこうも相違があるとは驚いたのだが、深く考察するならば、「命令違反」とはいえ全滅を免れ、マーカス岬の戦闘では後に転進するも、それ以上敵の進撃を食い止めた功績に対しては触れていない。 「現場の状況と命令とは一致せず」といったところであろう。
状況が刻々と変化する戦場で状況を把握していない命令が遂行され、遭えなく玉砕した部隊が実に多かったに違いない。
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