歩兵第百四十一聯隊主力は、一月三日黎明、重点を三角山に指向して攻撃を開始した。部署の大要は概ね次の通りである。
右第一線 歩兵第百四十一聯隊第二大隊 配属 同聯隊第一中隊、同野砲中隊、同聯隊砲小隊、同速射砲中隊 左第一線 歩兵第五十三聯隊第二大隊 配属変更なし 予備 歩兵第百四十一聯隊第三大隊(編成直後で大隊長未着。第十中隊欠) なお、三角山に向かった右第一線大隊(長 向井豊二少佐-49期)は、大隊内の各部隊を次のように配置した。 第一線 右から第一、第五、第六中隊(予備 第七中隊) 他に一個小隊を海岸を徒渉して日本川河口から敵の左側に指向。 重火器:青桐台に配置して攻撃を支援。 聯隊に配属された野砲兵第二十三聯隊第八中隊をもって、 三角山の攻撃を支援したものと思われるが、その詳細は不明である。 砲兵中隊の本属の大隊長である加藤隆少佐の回想によれば、 第八中隊は山砲二門を持ち、兵力は43名、携行弾薬は極めて少数であったという。 さて、開始された攻撃は、当初有利に進展しているかに観察された。 そして一時は三角山の奪取が報ぜられたが、 時間の経過と共にわが第一大隊の損害は増加し、攻撃は失敗に終わった。 この戦いはいわば西部ニューブリテン作戦の一つの焦点とも見られているので、以下その真相を明らかにするための各種関係資料が報告されている。 両軍の詳細は以下の通り。
片山聯隊長の回想 午前四時三十分、攻撃成功の青信号が三角山の南斜面に上がり、 同時に野戦高射砲第三十九大隊の杉原中佐から電話で「三角山を占領しているのが見えます!」と言ってきた。 この時、大島参謀も林平にきていて、攻撃が成功したというので軍旗の覆いを取り、軍旗に敬礼した。 しかし夜が明けるとともに三角山は非常な集中射撃を受けた。 艦砲と迫撃砲であった。そして第一線の状況は不明となる。 当時有線は補修しても三十分とは保たず、無線は電波を出すとすぐに敵に標定されて射撃を集中されるので第一線が使わず、連絡が取れなかった。 そこで書記を連絡に出したが(所謂伝令)目的を果たさず、 聯隊本部の少尉を二回派遣して状況がわかってきた。 第五中隊は通信班と連絡者が残った程度で玉砕。第六中隊は「三角山西側付近で前進できず」という状況である。 聯隊予備兵力として二個中隊(第十中隊欠の第三大隊)をもっていたから、これを投入すれば攻撃続行する事は可能であったが「玉砕攻撃になってはならぬ」という訓令を事前に受けていたので予備隊の投入はしなかった。 この時大島参謀から「青桐台に戦線を整理して攻撃の再興を準備せよ」と命じられた。
第一線攻撃部隊第一中隊第一小隊長稻木少尉の回想 中隊は一月二日朝、追及して第一線に到着した。 中隊長と小隊長が地形と敵情を偵察し、三日黎明、第一小隊右、第二小隊左の部署で、第五中隊と並んでその右翼から攻撃、 重火器支援のもとに敵陣地に突入。 しかし一時敗退した敵は、重砲、迫撃砲の集中砲火を浴びせ、物量に物を言わせて猛烈に攻撃してきた。小隊は敵陣地の一角に釘付けとなって身動きも出来ず死傷者が続出した。 そこで、やむなく青桐台の線に後退し、部隊の掌握に努めた。 当初五十七名いた小隊が生存者二十数名となり、下士官は全員負傷又は戦死した。 歩兵第百四十一聯隊主力の三角山に対する攻撃の状況は以上の通りである。 この間、左第一線の歩兵第五十三聯隊第二大隊(高部大隊)も苦しい戦闘を続けていた。 後述するように、この方面の米軍は一月二日から攻撃に出ていた。 そして高部大隊は損害と疲労に堪えて、この攻撃を阻止していた。 しかし四日になると遂に米軍の圧迫の為に若干の後退を余儀なくされた。 一月三日の三角山攻防戦のあと、米軍は三角山東西の側方から溢出して攻撃してきた。 第二大隊の左側にいた陸上勤務中隊、船舶部隊は、その強圧に押されて後退。 高部大隊正面では一月四日から戦車三台(M-4と推測される)が進出してきたので肉薄攻撃が敢行されるが、 戦車の進出によって戦線は危胎に瀕した。 米軍の射撃は猛烈で、青桐台で山砲が一発射撃したところ、米軍は600発も撃ち返して来た。 日本軍は戦闘開始後三日位で弾薬が無くなり方々の部隊がその陣地に残した弾薬を集めるのに苦労した。 記録では、一月八日夕、艦攻八機が第一線部隊の要請に基づき、 米軍迫撃砲陣地を爆撃、十数発を投弾したが、爆撃がすむと激しい射撃が再興された。 青桐台一帯の高地は六日までの連日の砲撃で焼け野原となった。